役職員株式交付制度・「夢の仕訳」
はじめに
一般的に、株式報酬制度やストックオプションは「短~中期的なインセンティブ」や「報酬の一部」として捉えられています。しかし、この制度設計に少し工夫を施すことで、従業員を株主として経営に巻き込み、従業員のエンゲージメントやウェルビーイング、実質的なガバナンス、中長期的な成長を実現する制度として設計できることから、政府でもこの普及拡大が検討されています(林芳正内閣官房長官答弁2024)。
しかし現状では、株式を付与した後に人件費を計上することが正しい会計処理と考えられていることから、長期的なPLヒットを懸念して規模が大きくなりにくいというボトルネックがあります。実際、丸一鋼管株式会社は全従業員に平均870万円の株式を無償交付し、その規模の大きさが話題となりましたが、当初は3倍の規模を想定していました。
この問題を越え、自己株式を人的資本投資として社会実装するための要が「夢の仕訳」です。会計・監査実務、企業、投資家、政策立案者が同じ目的を共有し、実現に向けた議論を進めていく必要があります。
1. 人的資本投資としての役職員株式交付制度
成熟経済においては、カネ(資本)の重要性は逓減しています。企業の貸借対照表には現金が積み上がり、ここに資本市場からの株主還元プレッシャーが加わることで、多くの企業は「機動的な資本政策」の名のもとに大量の自社株買いを行っています。加えて、取得した自己株式を無益に消却してしまう実務も横行しています。

他方、カネに代わって、採用競争、リテンション、技能伝承など、ヒト(労働者)が重要な資本となり、優秀な人材の確保が経営にとって深刻な問題となっています。さらに言えば、就職氷河期とは打って変わって、売り手市場の中で、企業は従業員のエンゲージメントやウェルビーイングにまで気を配り、「従業員を大切にしています」というメッセージを送る必要のある時代になりました。
つまり、いま必要なのは「自己株式」という資源を、無駄に燃やして無くすかのごとく消却してしまうのではなく、人的資本投資へ有効活用できる選択肢です。その選択肢になり得るのが、役職員株式交付制度による従業員の株主化と、それを大規模に成立させるための「夢の仕訳」です。
2. 「夢の仕訳」とは何か
「夢の仕訳」とは、自己株式を従業員(役職員)に無償交付する制度を、「報酬」ではなく「人的資本の充実」を目的とした制度として位置づけ直し、資本取引として整理する会計処理です。
その説明の前に、一般的には、株式報酬制度の会計処理は以下のように整理されています。
①自己株式の取得時
自己株式/現金
②株式付与時
その他資本剰余金/自己株式
③その後、譲渡制限解除までの期間にわたって、毎期
人件費/その他資本剰余金
ただし、自己株式の無償交付をめぐる費用化の扱いは、特定のスキーム(信託を通じた交付や取締役報酬としての無償交付等)を前提にした実務対応報告の影響が大きく、従業員向けのケースにまで同じ整理を自動的に当てはめることには、類推の問題が残ります。したがって、費用化を唯一の解とするのではなく、類推の妥当性から再設計する余地があると考えられます。
さらに、大前提として、自己株式の取得・消却は、株主との資本取引として整理されるはずです。にもかかわらず、無償交付だけが損益(人件費)を通じて処理されるのは矛盾を含み得ます。
これに対して、「夢の仕訳」は、②(資本取引)で取引を完成させ、③の事後の「人件費」化を行わないという処理を提案します。夢の仕訳の要点はシンプルです。
●自己株式を役職員に無償交付する制度を、単なる「報酬(インセンティブ)」としてではなく、人的資本の充実を主たる目的とする制度として設計する。
●会計処理としては、無償交付は資本取引であるのだから、事後的な「人件費化」(③)を行う必要はない。
ここで、類似する取引と考えられるストックオプションの費用化は、主としてインセンティブ(対価性)をどう捉えるか、という文脈で議論されてきました。これを、主たる目的が人的資本の充実であるとする制度へ類推適用する理由はありません。制度上、外形的に同じ取引でも、「主たる目的」によって会計処理が異なるのは当然であり、普遍的に観察されます。
もちろん、従来から議論の前提とされてきたインセンティブ効果があることは否定できません。しかし、これは副次的な「効果」であり原契約上の「主たる目的」とは区別することを提案します。もちろん現実としてこれらを区別することは困難ですが、だからこそ法的概念としての「主たる目的」を明示し、「効果」と区別することで、国民経済の健全な発 展の観点から望ましい実務の醸成を図ることができます。現代の日本企業に不足する資本が「ヒト」であることは明らかであり、それを確保することを目的として株式報酬制度(株式「付与」制度など、名前を変えたほうが良いかもしれません。)を行い、副次的に従業員のエンゲージメントやウェルビーイングも改善されることで、中長期的な企業の成長に繋がっていく、そのような流れを生むことが必要です。
3. モデルケース ~丸一鋼管株式会社~
実際に株式付与制度によってそのような流れを生むには、制度設計と金額規模が重要です。従業員に会社に長く在籍してもらうという目的を果たすためには、譲渡制限期間等の設計を詳細に検討する必要があります。規模については、金額が小規模だと従業員にとっては金銭的な福利厚生にしか感じられず、本来の目的は達成されません。
良例として、近年もっとも大規模に株式付与制度を実施した丸一鋼管株式会社は、全従業員に平均870万円の株式を無償交付しました。スズキ研究室は、丸一鋼管株式会社が株式報酬を実施する以前から付加価値の適正分配・投資経営について意見交換等を行っておりました。株式欧州実施後からはさらに緊密にコミュニケーションを取って、本社や工場でのヒアリングを通して従業員の生の声を伺うとともに、いくつかの従業員への浸透策を立案しともに実行しました。


本制度は規模だけでなく、短期売買を誘発しないように譲渡制限や退職時の扱いが設計されたほか、会長が説明動画に出演し思いを伝えるなど、制度の意味付けにも強いコミットメントがありました。
会社が実施したアンケートや、スズキ研究室による聞き取り調査からは、配当の受け取りや議決権行使を通じて自分も株主だという当事者意識が芽生えたこと、採用面での関心喚起(高卒、大卒、中途ともにニュースを見て応募や実際に入社するケースが見られる)、退職者数の減少と退職理由の変化(新しいことに挑戦したい等の理由が減り、介護や病気等の致し方ない理由が残る)など、人的資本面の効果が観察されています。
他方で、当初は自己株式全額相当(約170億円規模)の付与構想も検討されたものの、損益計算書への長期的インパクト懸念などを背景に、最終的な規模は縮小せざるを得ませんでした。仮に「夢の仕訳」が公正妥当な会計処理として周知されていれば、より早期に、より大規模に同種の取引が実現していた可能性があります。スズキ研究室には他の企業からも、「費用化をしないで良いのであれば、ぜひ株式付与制度をもっと大規模にやりたい」とのお声が多く寄せられていることから、本制度の実現に向けて、関係者の皆様と実現に向けた取り組みを進めてまいりたいと考えております。
さらに細かい論点につきましては、スズキ・橋本(2025)をご参照くださいませ。
4. 関係者の皆様へのお願い
夢の仕訳は、政府が普及促進を目指す役職員株式交付制度を、より大きなスケールで社会実装していくための一つの選択肢です。累計で約73兆円、2024年度だけでも11兆円超が消却されている自己株式を、人的資本投資へ転用できれば、「役職員であり株主でもある」という実質的な企業の担い手を育て、中長期の価値創造に必要な資本を厚くできる可能性があります。
本提案は、政策関係者や研究者からの後押しに加え、主要経済団体・証券業界・労組を含む関係者へのヒアリングで得られた強い関心を踏まえて提示しています。と申しましても、理論・実務の両面で更なる精緻化が不可欠であり、本論は検討途上にあることを認識しおります。つきましては、会計・監査・法務・税務・制度設計に携わる専門家の皆さまに、ぜひご知見をお寄せいただきたく存じます。建設的なご指摘を賜れましたら幸いに存じます。
「夢の仕訳」の意義は、国民経済の衰退が懸念される中で、誰に対しても過剰な負担を強いること無く、数十兆円の資金を持続的発展の用に供することのできる機会を見出し、それに向けての提議をしている点にございます。できない理由を列挙すれば暇がございませんでしょうが、そうではなく「どうすれば実現できるか」に議論と努力を注ぎ、迅速かつ十分な審議を経て、最終的には社会の意思を反映した政策判断につながることを願っております。
ー参考文献ー
林芳正(官房長官)(2024)。2024年4月15日、第213 回国会 参議院 決算委員会。森まさこ議員による付加 価値の適正分配とその具体的方法としての役職員株式 交付に関する質問に対する「普及・促進」の答弁 (005;006)
スズキトモ・橋本基美.(2025).人的資本の充実に向けた役職員株式交付制度の提言:~「夢の仕訳」~.『資本市場』,(480),28 – 42.